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 伊能忠敬による薩藩測量

伊能忠敬肖像(伊能忠敬記念館蔵)
 伊能忠敬(1745-1818)は、隠居後、暦学天文学を学び、全国を測量して「大日本沿海輿地全図」を完成させたとして大変有名です。この地図は当時の国際水準をいく精密なもので、明治初頭に至っても使われました。測量は10次にわたって行われましたが、第七次(1810)と第八次(1812)の時、薩摩藩も測量しています。伊能忠敬の業績を克明にまとめ、天下に知らしめたのには、大谷亮吉(1917)の大著『伊能忠敬』が大いに預かって力となりました。その中で、大谷は「西陲の雄鎭鹿兒島藩の如き固より其領域の地勢を幕吏に明示するを好まざりしならんも幕府の命令の如何ともすべからざるを以て却て忠敬を優遇し以て其意を迎ふると共に吏民をして極力忠敬の業を補助せしめたり」「幕府の最も憚れる鹿兒島藩にして忠敬を遇せること既に斯の如し。自餘の諸藩に於て與へたる待遇便宜又推して知るべきなり」と述べています。
 これに対して増村宏(1968)は、薩摩藩は外様大名、自藩の測量など不快に思っていたに違いない、との思い込みが大谷にはあって、このような記述になったのだろうとしています(「鹿児島の古地図・地質図」余談参照)。忠敬薩藩測量時の藩主は第10代島津斉興でしたが、実権は祖父の重豪が握っていました。時の将軍家斉の御台所茂姫(広大院)は重豪の娘でしたから、島津家と将軍家は親密な間柄だったことを大谷は失念していたのでしょう。また、重豪は「蘭癖」と言われたくらい開明的でしたので、測量の意義を十分認識していて厚遇したのかも知れません。しかし、まだ調所広郷による財政改革の前、薩摩藩は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて財政破綻寸前でしたから、測量支援の出費は痛かったに違いありません。種子島では領主が「万一も不都合有之候而は恥辱は不及申、上様御外聞不宜事候処、余分無残所被申透候儀、迷惑之事候得共、是迚も公儀よりの事に候得は、不及是非次第に候」と述べたそうです(増村,1968)。この場合上様とは島津氏のことでしょうが、家格にふさわしい体面を保つために大変な無理をしたようです。たとえば、種子島では伊能忠敬の北隊と坂部貞兵衛の南隊と二手に分かれて測量しましたが、北隊は伊能以下8人に対して、島津家役人59人、種子島家71人が付き、南隊では、坂部以下8人に対して、島津家36人、種子島家27人が付きました。もちろん、その他に人夫や炊きだしなど各村ごとに人数を出しています。
 忠敬のほうも大変でした。2回の薩藩測量に合計280余日を要しています。諸藩の中では一番長期間の作業に従事しました。とくに種子屋久の測量は、ちょうど梅雨期でしたから、風雨がひどく、長期の風待ちを強いられました。
伊能忠敬像(富岡八幡宮)伊能忠敬墓(源空寺)
伊能忠敬関係記念碑・墓碑等
伊能大図(鹿児島)
検索文字: 
<注> アメリカ議会図書館の伊能大図は、ジオレファレンスしましたが、折りたたみ皺などの影響があり、かなりずれが目立ちます。ご容赦ください。なお、アメリカ議会図書館は、「公開の制限などは図書館存立にかかわるとんでもない話」との方針だそうです。そこで、早速使わせていただきました。感謝感激です。日本の図書館・博物館等も囲い込みの姿勢を変えて欲しいものです。

 以下、薩摩藩関係の文献を掲載します。薩摩藩の公式史料である島津家史料は、①宗家の史料、②国元で作成された藩政史料、③江戸藩邸で作成された史料とありますが、②は、明治5年(1872)鹿児島県令大山綱良の命で焼却処分、③は慶応3年(1867)の三田薩摩藩邸焼き討ち事件で焼失し、①だけ鶴丸城旧三の丸「岩崎六ヶ所御蔵」に所蔵されていました。西南戦争の際、激戦地になる可能性が強かったので、家令東郷重持が命をかけて持ち出したため助かったそうです(山本,2003)。しかし、忠敬測量時の斉興譜はどうも焼失して、後から編纂しなおされたらしく、詳細は書いてありません。結局、地方文書しか頼りになりませんが、これまた廃仏毀釈の影響か、あまり残っていません。なお、『楠川文書』については、屋久島町教育委員会に大変お世話になりました。篤く感謝の意を表します。

 旧記雑録

 『薩藩旧記雑録』は薩摩藩の史官伊地知季安・季通父子が編纂した薩摩藩の公式記録集です。

 
 重豪公御譜中
天文方伊能勘解由(忠敬)・坂部貞兵衛(惟道)爵各為御目見以下量諸國、今茲夏五月八日入吾封内志布志、而至福山兩班量諸處、九月二日貞兵衛自加久藤肥後人吉、同十八日勘解由自長島新疆而去、詳見齊興譜矣、
天文方伊能勘解由、坂部貞兵衛、諸国を測量す。今茲(ことし)夏五月八日、吾が封国内の志布志に入る。福山に至りて両班となり、諸処を測量す。九月二日、貞兵衛加久藤より肥後人吉に至る。同十八日、勘解由長島より(さかい)を出て去る。詳しくは斉興譜に見る。
斉興公譜全文同末如左
按此事記
重豪公譜曰、事詳于 齊興譜、而今不能記其詳也、猶六年十二月十六日条下所記云
重豪公譜に日く、事は斉興譜に詳かにす。しかるに今其の詳を記す能わざる也。猶六年十二月十六日条に記す所と云う。
伊能忠敬先生絶賛の地(番所鼻)

 三国名勝図会

 『三國名勝圖繪』は、薩摩藩第10代藩主島津斉興が、橋口兼古、五代秀堯(五代友厚の父)、橋口兼柄らに薩摩・大隅・日向の地誌編纂を命じ、天保14年(1843年)にまとめられたものです。

佐多( 南大隅町)
北極出地の度數 當邑は、大隅國の邊極にて、其地南海に突出せり、又當邑の御崎山は、此地の尖觜にて、日本接壤の内、第一極南の地とす、御崎山は、下に詳なり、 大凡北極出地の高さ、三十一度の所なり、故に此邑、冬月といへども、温暖にして、其氣候の行るゝ、南島と稍齊し、是故に奇藥珍果の類も、能生長せり、實に邊陲の一名區なり、本朝諸國北極出地の度數、南北東西の國々にて、大に異なり、貞享曆曰、北極出地の高さ、京都三十五度強、江戸三十六度、奥州津輕四十二度、南部四十度、紀州七尾三十九度、熊野三十四度、土州高知三十三度半、肥州長崎三十二度半、對州三十六度、貞享暦は、江府天學家、澁川春海の著述なり、其一度の里數、三十二里餘とす、今是に因て考るに、日本極北の津輕は、四十二度にて、此佐多御崎は、三十一度なれば、南北凡そ十一度餘に及べり、屋久島は、大凡北極高さ三十度、七島の内寳島北極高さ二十九度、寳島は本藩海島の内、最南の地也、本文の南北十一度の説は、日本接壤の内を以ていへり又海外の北方、蝦夷、松前、北極高さ凡四十二度半餘、ソウヤ、蝦夷の内、四十度、エトロフ島、蝦夷の内、四十六度より、四十七度に亘る、北蝦夷、四十七度より、五十度に亘る、ソウヤ、エトロフ、北蝦夷、皆箱館あり、北蝦夷一名は、唐太(カラフト)島、其惣体廣さ四十七度より、五十四度餘に亘りて、其島の半、五十一度より五十四度餘は、魯西亞國の管轄にて、本文に見江たる、四十七度より、五十度許は、日本に屬せり、南方の琉球國は、北極高さ大凡二十五度琉球中山の測なり、其屬島は、一々又異なり、とす、今や本朝武威雄大にて、其勢海外に至て振ひ、大府地を廣めて蝦
夷、及ひ北蝦夷まても、日本の封内となり、又南方琉球國までも我藩屬に係れば、皇國封域の大なること( くずし字)誠に昔日と同ふして語るべからず、故に其海外の封内まで併せ考れば、其極北の北蝦夷五十度より、極南の琉球二十五度とは、南北の總計二十六度に亘れり、是を以て觀れば、日本も大國と云べし、凡そ一度の里數、天學家諸家の説異なり、澁川春海測は、前文の如し、西川正休測には、三十八里四分六、島谷市左衛門測には、四十三里許、小林謙貞測には、三十一里六町少、長久保赤水測には、三十二里、本藩水間喜藤太測には、三十里餘、近來伊能勘解由測には、二十八里七町一十二間、先年本藩明時館、縣官の 公命にて、地圖製作の時は、伊能氏の測に據れり、漢土は、古來大國と稱すれども、其南北の如きは、日本より亦甚た長からず、其極北の盛京は、盛京は、遼東の地にあり、北極高さ四十一度五十一分、其極南の廣東省は、二十三度一十分、是を以て推して知るべし、江南省は、北極高さ三十二度零二分なれば、大抵本藩の地と相類せり( 以下、略)

番所鼻( 南九州市頴娃町)
往歳大府の測量官、伊能氏、諸國を巡歷して、此地を過きし時、景勝を賞して曰く、是名所の浦なり、列國の内にかくの如くなる景勝の處は、復得べからずとて、半日許り駐滯して、この所の畫圖を寫せしとかや、凡そ開聞嶽遠眺の勝地は、坊津耳取嶺と、此所なりといふ、此地西陲にあれば、其名天下に著はれず、實に惜むべきなり

八重岳( 屋久島町)
皇國の内、富士嶽を第一の高山と稱ずれども、富士は陸地より秀たるに、此八重岳は、海底より直立せる岳なれば、其高きことは、却て其上に出べし、往年縣官(コウギ)より、測量の命を受て、諸國を經歷したる伊能勘解由と云る人、屋久に渡海して、其嶽の秀絶を見て、富士も及ばずと、歎稱したることありとかや、富士は巓きまで上り十里なり、直立の高さ三十六町、淺間山、直立高さ十二町、箱根山、直立の高さ七町、是會田自在といふ測量者の説なり、又日本の高山富士淺間の類、火ありて燃たる所多

し、凡そ燃る山は土山なる故なりと可、此八重岳は石山にて、水泉多き故にや絶高を究めたれども、古より燃ざるは又一の奇と云つべし

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 種子島家譜

 種子島家は鎌倉時代初期より明治まで種子島の島主でした。 『種子島家譜』は種子島家の公式史書です。

文化七年
○三月、江戸天文者伊能(いのう)勘解由(かげゆ)以下属吏、廻国す。故に御記録奉行得能正助。吾が種子島の図籍を出さしむ。其の略( 事、繁なるを以て他巻に譲る)左に記す。
文化七年三月、江戸天文者伊能勘解由以下属吏廻国故、御記録奉行得能正助令出於吾種子島図籍其略以事繁譲他巻記左  種子島村方幷家数等其外糺方之儀、左之通
一 何村家数何百何拾軒
但右之枝村有之候ハゝ、本村之家数何拾何軒、枝村之家数何十何軒之訳、銘々書分、枝村者何と相唱候訳、若又本村枝村之内ニ而、小名も有之候ハゝ、何十何軒ハ字何と相唱候段可書記候
一 村長サ東西何十何町、南北何十何町  但何十何町ハ入居有之、何十何町ハ人家無之、野原又ハ山浜等之訳書記尤東西南北之方角ニ不相当場所も可有之候問、子丑寅等と方刻を以可相記候
一 比以前村立居、当分相禿、現村無之分者、其訳可申出候、尤右村立居候節者、村境相知居候ハゝ前条之趣ニ応し、方角里数等者前条之通、村之内海浜有之候ハゝ其長何十何丁之訳
隣村と相境居候所者、何村境より何村境迄海浜何丁之訳、隣郷江相境候場所ハ、当村江何村境より伺村境迄伺拾何丁之訳可相記候
一 海辺ニ出合候村々者灘目迄、右村人家有之候所より何十何丁之訳
本村陸手引入有之枝村、海辺ニ出居候ハゝ、本村者何と申村名ニ而、枝村者何と相唱、海辺ニ出居右枝村人家より灘目江何十何間之訳可相記候
一 村内往還筋幾通リ有之候訳
但田畠往来小道等者相除

一 種子島より鹿児島迄海上里数何拾何里之事
一 種子島惣廻里数之事
一 種子島之内村々川何ヶ所有之、船渡歩渡之訳、橋有之場所者板橋土橋長サ何十何間之訳
一 寺院何ヶ寺ニ而本山庵号何宗之訳
但寺高有之候ハゝ何十何石之訳書記し不相知候ハ、其訳相記
一 神社銘々相記、祭神何
一 神主某之訳
一 種子島之内ニ而、何村人家より何村人家有之候迄何里何丁、方角何之方ニ相当り候訳書記し、隣村境之儀者何村人家より何村人居有之処迄、右同断
但何村人家より何村人家迄之問、田畠又者山越岡越等之場所者銘々其訳可相記候、右村順之儀仮屋元より次之村々村順次第ぞ以、方角里数可相記候
一 種子島村々より能相見え候高山等有之候ハゝ、其訳相記、何村より何国何郷何山何島等相見得、大概見渡し里数何丁斗も可有之、方角者何方ニ相当候訳
一 島幾ツ
内何島島名銘々書記、小島ニ而名茂無之分者其訳書記、廻り何十何丁、人居有之候ハゝ何十竈ニ而、地方最寄何村海上何十何丁、何之方角ニ相当リ候訳、人家無之候ハゝ其訳可書記候
一 大小船掛リ湊、深サ伺十何尋之訳
但風並ニより船掛不相成湊者何風之節は船掛無之訳
一 湊ニ而無之候而茂、船掛相成候場所者深サ何十何尋之所ニ而、何風之節者船掛無之訳
 右此節 公儀天文方為御用伊能勘解由其外、国々被差廻、先触案文を以申越趣有之候ニ付、種子島之儀も可相廻方相見得候一一付、右之通糺方申達候問、早々取しらへ、一村ツゝ取分ケ一帳書記、且種子島村方幷方角等委細書載、□絵図取仕立相添、御記録所江可差出候、比段申進候、以上

御記録方添役得納正助

○( 付纂)官。天文者伊能勘解由等に命じて、来年三四月より六七月の聞に至るまで。屋久島、種子島に渡海し来らせしめ、須く之を測量すべしと。事。左に開く。

文化八年
○正月十一日、官。かつて伊能(いのう)勘解由(かげゆ)等に命じ。来りて星斗を測量して里程を定めしめんとす。今又、国老島津安房久備。令を伝へて。()いて(とり)の年に及ぶことを告げらる。左に開く。

伊能勘解由その外測量御用のため屋久島、種子島に渡海の筈に候処。来る酉の年までに延引仰せ付けられ候段。勘解由申し越し候条此の旨承はるべき向きへ申し渡すべく候。以上。
正月 安房 取次 二階堂左門
○五月廿丸白、天文者来るの故を以て御留守居付役野元嘉三次盛貞。書を吾が家老に贈る。左に開く。
○十二月十一日、天文者伊能氏等、種子島に来るの故を以て。書を与へて以て家老、物奉行、用人等を箴しむ。左に開く。

文化九年
○正月十四日、縄を牽いて予め測量の試を為す。丹華橋より南北に分る。北一隊。家老上妻七兵衛宗愛。組頭西村甚五太夫時員、岩河嘉兵衛政寅。郡役東森右衛門、美座五藤右衛門。作事方梶原瀬左衛門。寄役平山一右衛門。筆吏武田休七。南一隊。家老時任丈左衛門時子。組頭美座半兵衛時息、上妻才十郎宗義。郡役美座六兵衛時観。寄役遠藤壮兵衛。作事方上妻新七、羽生主右衛門。筆吏徳永小平太。
○三月二日、家老上妻七兵衛宗愛。組頭西村甚五太夫時貞、上妻才十郎宗義。寄郡役遠藤壮兵衛。書役武田休七をして。屋久島に遣はして測量の事を(うかゞ)はしむ。

○四月廿六日、測量者伊能氏等。屋久島より島間村に到る
○廿七日暁、急使赤尾木に至りて之を告ぐ。是に於て。之に属するの家老及び諸有司。即日島間村に赴く。
○廿八日、南北に分れて測量す。南一隊は。坂部定兵衛、永井甚左衛門、箱田良助、保木敬蔵、大山甚七、笠原三郎助、僕二人( 清助、友吉)。麑府御記録奉行得能正助。書役隈岡幸助、吉田半右衛門。御留主居役松元十郎兵衛。見聞役山本十蔵、田中仲右衛門、画師児玉龍雲。御兵具方足軽八人。用聞三人。賄方請負三人。御作事方丁夫十五人。吾が家老上妻七兵衛。物奉行西村四郎左衛門。組頭岩河嘉兵衛、西村甚五太夫。船奉行森十郎右衛門、平山友四郎。作事方梶原瀬左衛門、羽生嘉右衛門、郡役東森右衛門、美座五藤右衛門。馬役知覧次郎太夫、羽生新十郎。家老書役武田休七。組頭書役鮫島直左衛門。郡方書役落合嘉左衛門。物奉行書役桑山惣之進。下用聞三人( 市街の者)。帳取二人( 向上)。侍童六人( 酒を行ひ、膳を薦むる者)。北一隊は、伊能勘解由、今泉又兵衛、門谷清次郎、尾形顕次郎、加藤嘉平次、宮野善蔵、久保木佐助、久保木佐左衛門。麑府御留主居役林与一郎( 従者六人)。書役小倉幸之允( 足軽一人之に属す)。御記録奉行橋口今彦( 従者二人)。御留主居役平田次郎八( 従者二人)。同見聞役兼椎原与三次( 従者二人)。見聞役東郷八右衛門。御記録方書役大浦清右衛門、種子島休蔵。画師大山勘助。医師小村順康。御兵具方足軽十五人。用聞三人。賄方請負三人。作事方丁夫十五人。吾が家老時任丈左衛門。物奉行羽生仙右衛門。組頭美座半兵衛、上妻才十郎。作事方上妻新七、羽生主右衛門。船奉行日高源右衛門。船奉行寄西村次郎兵衛。郡役羽生伊兵衛、美座六兵衛。馬役日高孝兵衛、河内覚右衛門。家老書役遠藤甚五左衛門。組頭書役宮浦半右衛門。郡方書役河野宇兵衛。物奉行書役梶原惣右衛門。代官古市杢兵衛。下用聞三人( 市街の者)。帳取二人( 向上)。侍童廿六人。上妻九郎左衛門及び馬役河内十郎。書役八板杢之進三人は。

林与一郎に属し。西村次郎兵衛は橋口今彦に属し。平山友四郎はは得能正助に属し。且つ丁夫廿人を撰んで常に之に随ふ。日々用ゐる所の人馬。挙げて数ふべからず。伊能氏らは西海の(ひん)に随ひ。測量して里程を定め。坂部氏らは東海の浜に従ふ。五月八日伊能氏ら現和村田之脇に到り。九日坂部氏ら同所に到る。凡そ種子島は周回三十七里二十三丁三間。縦十五里廿一丁廿七間。横は納官村上尻より増田村郡原の汀に至るまで一里廿六丁四十六間。又池田より現和村田之脇の汀に至るまで二里十五丁十一間。(つぶさ)に別棤に記す。
○五月廿二日、天文者伊能氏、坂部氏等。帰る。
○七月廿七日、鍛冶八板権五左衛門。一世(ぶやく)を免ず。其の母及び女子。天文者に随ひて豆腐を製し。自ら請ひて。(むすこ)を以て侍童に備へ。数日勤労す。又、蚊帳を市街中に借りて測量者の用に供するに。己無きを以て。新たに製して之を出す。其の心の正直なるを賞してなり。
○大山五右衛門の娘を褒詞す。天文者の官仕と為りて数日巡行し。其の労を辞せざるを以てなり。
○安城村の弥平太。住吉村の権右衛門。現和村の源之進、仁七。安納村の四郎太。国上村の十四郎。納官村の勘六。増田村の永吉、三吉。野間村の孝之進。坂井村の兵左衛門。島間村の市十郎。平山村の孫左衛門、六左衛門。油久村の勘六。茎永村の喜左衛門、長吉。中之村の孫右衛門、清十郎。西之村の源五郎。三年大山野の賦税を免ず。定丁夫と為りて天文者に従ひ。巡行勤労するを賞してなり.
○米一石を西之表村村吏に与ふ。天文者島聞に至るの日より一日も()まず。終始風雨を厭はず。他村に勝りて勤労するを賞するなり。
○米一石を島間村村吏に与へ。浦受銀を免ずること三年。天文者不意に島間村に到るの日。一村の人民労を厭はずして善く勤労し。水陸の用を給するを賞するな

り。文、米四斗を(あた)ふ。天文者(にわ)かに測量を始むるを以て急に坂井村の(ニンプ)を召す。到らず。野間村に命ず。事、急速(にはか)なるを以て飯を炊くの(いとま)なし。島間村の村吏。之を(オシハカ)りて百余人ぶんの飯を炊き。之を大町田(おほまちだ)に送りて野間村の(ニンプ)(くら)はしむ。其の志慮や至れり。故に之を賞するなり。
○米二斗を柳田善五に与ふ。測量中の手伝と為る。(もと)数年、代官所の手伝と為りて老成なるを以て善く事を弁じ。しかも老年を以て勤労するを賞するなり。
○笹川半兵衛。手形銀三年を免ず。蒲団を市街中に借りて天文者の用に備ふるの日。己これ無きを以て。新たに製して之を(いだ)すを賞するなり。
○阿世知半左衛門、武田市郎兵衛、徳永惣吉(ソーキー)、牧瀬新之允、柳田(こん)左衛門、阿世知春右衛門(ハルヨモ)、柳田休五郎、浜田平吉等。餅原氏、八代氏来りて一島を巡行して天文者の旅館を定むるの(とき)。或いは家を修理し。或いは(かはや)、浴室等を造り。一村に一日を過ごさず。励精勤労す。故に言を以て之を褒賞す。
○現和村の嘉右衛門、出右衛門、喜与八、新四郎、市太、三左衛門、三之允、市蔵。増田村の平十郎。中西の彦四郎。下西の休太郎。役を免ずること一年。善く茅屋を葺くを以て。餅原氏に従って巡行し。天文者の旅舎を修葺し。且つ測量の丁夫に勤労するを賞するなり。
○中西之表百姓清七。役を免ずること一年。測量の時に当りて仮屋番と為り。自ら普請方に至りて其の日の用を受け。一日も怠らず事、留滞するなし。是に於て之を賞して此に及ぶ。
○島間村百姓笹次郎。役を免ずること一年。天文者島間に在るの日。笹次郎。作事方の定丁夫(じゃうにんぷ)と為りて。行李(かうり)を運送するの事を司る。俄かに両隊と為りて東西に分かるゝの日。紛乱混雑の中に居りて一事も過差せず。善く其の任に()へたり。

故に之を賞するなり。
○廿八日、松下次郎右衛門、樋口権六、山県平四郎に。米各々二斗を(あた)ふ。天文者港を発する(あした)。船長尽く会して風の順逆を論ず。他は皆逆と為すに。松下、樋口、山県のみ順と為す。果して順風を得たり。能く船長たるの(うつは)(かな)ふを賞するなり。
○米四斗を野間村村吏に与ふ。俄かに測量の(ニンプ)百余人を命ずるに。村吏能く務め。忽ち百余人を募りて其の用に具ふるを賞するなり。
東街(ひがしまち)中の者に。天文者使令の事を命ずるに。概ね虚言を構へ命を(こば)む者あり。且つ平生、船奉行が船の事を以て役夫を命ずるも亦(かく)の如し。故に主取なる者をして。市街に()る者を(いま)しめ。(ことごと)く船奉行の令を守りて。宜しく奉事すべしと令せしむ。
○武田市蔵の親戚を叱る。市蔵の娘をして天文者の給侍たらしめんとするに。言を巧にして命を奉ぜず。再三に及ぶも猶(しか)り。時に市蔵は家に在らずと難も。平日の教誨厚からず。親戚も亦教諭薄きが故なり。是を以て茲に及ぶ。
○中之村河野権之進を叱る。時に河野。測量の事を奉ずるが為に島間村に在り。帰るに及んで。(ニンプ)を中之村に命ずるの書を(もたら)さしめ。且つ速かに之を達せよと命ず。しかるに中途にして病発すと称して。之を達せず。ために事大いに遅滞す。若し病発せば則ち宜しく其の従者をして之を達せしむべし。今其の事に及ばず。罪最も深し。今一等を減じて茲に及ぶ。
○坂井村村吏を叱る。測量の夫を命ずるの日。村吏懈怠(けだい)して其の用を欠く。今罪一等を減じて茲に及ぶ。
○茎永村村吏古市十兵衛。寺入十四日。測量の夫を茎永村に命ずるの日。中途にして其の書を得て之を村に達せず。
○林甚右衛門、小田原孫左衛門、柳田善右衛門、松下満右衛門を叱る。各々其の

娘をして天文者の給侍たらしめんとす。然るに再三に及んで之を辞す。国家。大賓を受くるの日に時宜(じぎ)を弁ぜず。甚だ不敬なり。故に茲に及ぶ。

文化十年
○十一月十九日、去蔵。伊能氏等。天文を測量して。里堠(りこう)を定め丁木を立つ。しかるに今歳に至りて既に廃する者あり。よって。速やかに之を立て。道衢(どうく)に於ては。是所より某所に通ずるの事を標題して。之を立つべしと命ず。


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 楠川文書

 『楠川文書』は、楠川村(現屋久島町楠川地区)の庄屋が、文化年間から明治まで書き継いできた文書です。赤字は原文も朱書

楠川文書 七―一

 文化九年申五月
測量方夫立差出帳

 楠川村庄屋 市右衛門

二月廿九日
一 宮之浦江唐竹切夫 九人
一 丸た木山取夫 五人
一 小唐竹弐束切夫 弐人
一 小取夫 五人
一 大工 壱人
右測量方御休宿拵方
一 八代三左衛門様田代善助様小瀬田村江御通之節持夫 四拾壱人
一 吉田六左衛門様御荷物持夫 六人
一 有馬安兵衛様御方持夫 四人
一 伊藤勘右衛門様御方持夫 六人
一 野村甚八様御方持夫 七人
一 御手形所御荷物持夫 七人
〆三拾人
右小瀬田村迄
一 御用封并御荷物持夫 女拾九人 男拾五人
右宮之浦江
一 右同持夫 女拾九人 男拾五人
右小瀬間村迄
〆六拾八人
一 丸た木弐百本山取夫 廿壱人
一 七八寸廻唐竹五拾本小唐竹拾束切夫 拾九人
一 萱百把切夫 拾八人
一 宿拵夫 三拾八人
〆九拾六人

三月十五日
一 丸た木百八拾本五六寸廻并七八寸廻山取夫 五拾五人

屋久町楠川区有文書

同月十五日
一 小唐竹四拾束切夫 三拾人

同月十五日
一 七八寸廻唐竹五拾本切夫 拾三人
同月十五日
一 芝七拾把三尺廻切夫 拾人
同月十五日
一 杉之ほ六十把一尺廻切夫 拾弐人
同月十五日
一 萱六拾把三尺廻切夫 拾五人
同月十五日
一 かつら拾把夫 三人
〆百四拾六人

三月十六日
一 大工 三人
同月同日
一 現夫 拾五人
〆拾八人

三月十五日
餅原正右衛門様御宿普請夫 五人
同月同日
一 片埜坂正右衛門様御宿普請夫 四人
同月同日
一 杉清之進様御宿普請夫 四人
〆拾三人

三月九日
一 椨川村之道切夫 弐拾九人
三月十七日
一 男現夫 弐拾人
一 大工 三人

三月十八日
一 大工 弐人
同月同日
一 現夫 拾五人

三月廿一日
一 丸た木拾七束切夫 拾人
三月廿一日
一 五六寸廻唐竹三拾本切夫 六人
一 小唐竹八束切夫 五人
同月同日
一 宿拵夫 四拾七人
同月同日
一 道切夫 弐捨五人
同月同日

萱七拾把切夫 拾三人
同月同日
一 杉ほ弐百把夫 弐拾人
同月同日
一 芝切夫 拾人
〆百三拾六人

三月十九日 餅原正右衛門様御荷物持夫 七人
同月同日
一 杉清之進様御荷物持夫 七人
同月同日
一 利助殿荷物持夫 四人
同月同日
一 片野坂正右衛門様御荷物持夫 七人
同月同日
一 御用物持夫 四人
〆弐拾九人

三月十九日
一 唐竹弐本切夫 壱人

三月十八日
一 真那板取下し夫 五人
一 右真那板拵大工 弐人

三月廿七日
一 餅原正右衛門様御荷物持夫 九人
同月同日
一 御用物持夫 八人
同月同日
一 杉清之進様御荷物持夫 八人
同月同日
一 利助殿荷物持夫 六人
同月同日
片野坂正右衛門様御荷物持夫 六人
三月廿七日
一 田代善助様御荷物持夫 宮之浦江御通之節 六人

四月朔日
田代善助様安房村江御通之節御荷物持夫 三人
四月朔日
一 道案内人数持夫 五人
同月同日
一 触取人数荷物持夫 四人

四月二日
一 夜急小瀬田村江持届夫 弐人

同月同日
一 御作事方御用物持夫 小瀬田村江 壱人
四月五日
一 橋口今彦様御荷物持夫 弐拾人
同月同日
一 大津清右衛門様御荷物持夫 七人
同月同日
一 種子嶋休蔵様御荷物持夫 九人
同月同日
一 大山勘助様御荷物持夫 六人
〆四拾弐人
四月五日
一 測量方御荷物持夫 舟行村之夫替合楠川村より( 異体字)差立候( 異体字)夫 拾七人

四月三日より( 異体字)五日迄 宮之浦迄
一 測量方御荷物持夫 小瀬田村江差立候( 異体字)
男夫 弐拾五人 女夫弐拾人
〆四拾五人
四月六日より( 異体字)七日迄
一 宮之浦より( 異体字)一湊村迄測量方御通之節御荷物持夫 男夫 三拾人 女夫 弐拾人

四月十三日
一 男夫五拾参人 女夫六拾人
右宮之浦より( 異体字)安房村江測量方陸地御通被成筈二而遺候( 異体字)らへ共雨天ニ而御通不被成故御暇ニ而罷仕申候( 異体字)
内男夫弐拾九人
右御記録方御通被成故宮之浦小瀬田村迄御荷物持越申候( 異体字)
一 男女打込夫百八拾人外に拾九人御用掛持夫
右楠川村より( 異体字)小瀬田村迄測量方御掛御役々御通之節御荷物持夫
一 同百参拾七人内参拾一人御用封持夫
右楠川村より( 異体字)宮之浦迄御荷物持夫

四月廿八日
一 御手形所安房より( 異体字)宮之浦江御通之節御荷物持夫 弐拾八人

三月廿九日

 六枚帆弐艘 水主拾六人 主取 新之丞
内壱艘 四月二日御暇 右同 直助
 壱艘 四月七日御暇
 瀬渡舟弐艘 水主八人 主取 喜平太
右四月五日御暇 右同 定八
右は( 異体字)測量方付廻御用船として安房村江差立
三月廿九日
 弐枚帆弐艘 水主十六人 主取 仲八
                   右同 藤八
右は( 異体字)林與一郎様御乗舟漕舟として楠川より( 異体字)安房村江差立四月二日御暇

四月十二日之晩より( 異体字)
 弐枚帆五艘 水主四拾人
右側量方宮之浦より( 異体字)安房江御帰被成筈ニ而差立申候( 異体字)
内四艘同十四日於宮之浦御暇
 壱艘安房村江差越十五日迄

四月十六日より( 異体字)廿九日迄之間
一 御用封御荷物持夫 拾五人
内宮之浦江八人
 小瀬田村江七人
 種子油二壷 代銭三百七拾弐文
右御記録方御作事方御舟付船頭衆御召少々入
右は( 異体字)測量方夫立差出如此御座候( 異体字)以上
  楠川村庄屋 市右衛門
申五月
測量御掛
 伊藤勘右衛門様
 田代善助様
 瀬渡舟弐艘 水主八人 主取仲左衛門
                  右同仲吉
日数 壱日宛
右飯米六升楠川庄屋方より( 異体字)相渡申候( 異体字)
右は( 異体字)測量方薪添廻として安房村江差立申候( 異体字)
 真米六升

右は( 異体字)測量方付廻船飯米として楠川村庄屋方より( 異体字)相渡置申候( 異体字)
右之水主八人 主取定八
       右同嘉平
一 測量方外ニ御役々様方御荷物御用物持夫 八拾四人
内四十人 小瀬田村江
四十四人 宮之浦江

四月廿八日迄
右之通御届候( 異体字)以上
又夫数 千七百三拾七人

測量方一件差出留

一 楠川村町筋東西江壱町南北江四町
一 宮之浦境より( 異体字)小瀬田村境迄道筋弐十七町十七間
一 楠川村人家より( 異体字)宮之浦境迄道筋五町八間
内川一ケ所歩行通
一 楠川村人家より( 異体字)小瀬田村境迄弐拾弐町九間
内大小六ケ所皆歩行渡り
一 神社壱ケ所 天満大自在天神 宮有
一 寺院壱ケ所 寺号本蓮寺
一 楠川村より( 異体字)寅外ニ当り種子嶋見渡其外相見得不申候( 異体字)
一 楠川村之内椨川[  ]小村有之町筋東西江三拾弐間南北江弐拾二間
一 椨川江神社壱ケ所 横山大明神 宮有
右之通相改可差出旨被仰渡趣奉承知道案内之者共立会之上委縄引間数承改申候( 異体字)処右之通別条御座候( 異体字)問差出如此御座候( 異体字)以上
 申二月 楠川村庄屋 市左衛門
御記録方 御書役衆中

一 公義衆御挨拶人 楠川村庄屋 三十三才 市右衛門
一 右同道案内口人 但随成人
一 公義衆御乗船御付廻諸役々様方御乗迄五枚帆八艘壬申三月廿七日楠川村沖御通同廿八目安房村江御急船被成候( 異体字)

一 申四月朔日より( 異体字)測量として弐手廻り船行村小瀬田村楠川村宮之浦村志戸子村一湊村吉田村之儀は( 異体字)公義衆伊能勘解由様永井甚左衛門様今泉又兵衛様原村栗生村迄之間坂部貞兵衛様永井甚左衛門様双方永田村ニ而御取會有之候( 異体字)
[    ]同十一日測量相済永田村江御揃被成候( 異体字)
一 右御付廻御供之衆
御使番林与一郎様御記録奉行橋口今彦様同添役得能正助様御留主居付役松元八郎兵衛様椎原与三次様横目衆田中仲右衛門様山元十蔵様吉田半右衛門様東郷八右衛門様御使番書役小倉孝之丞様□岡孝助様御記録番役種子嶋休蔵様大浦清右衛門様画師児玉龍雪大山勘助屋久島御書役伊藤勘右衛門様[    ]衆□元五郎太田中彦右衛門平川八郎久保與兵衛山本半七池田龍右衛門埜添伊三郎田中次郎右衛門田尻三兵衛村山六郎竹下庄八御舟手船頭水主御作事人足御用聞町人三人
一 公義衆并御役々衆申四月廿六日種子嶋江御渡被成候( 異体字)
一 測量方ニ付楠川村中之夫立男女二月廿九日より( 異体字)四月廿六日迄之間千七百八十四人
一 弐枚帆瀬渡舟迄人別夜半不届諸御奉公相立申候( 異体字)
一 陸地御荷物夫一里ニ付銀二分ヅゝ男女共ニ被成下候( 異体字)
一 一日諸奉公米五合ヅゝ
一 一夜泊七合五
一 御用船水主之儀は( 異体字)一日七合五銀六厘ヅゝ
一 船賃一日六厘ヅゝ
一 飯料之儀は( 異体字)諸御蔵分より( 異体字)其節々御借用仕候( 異体字)惣差引相拂残米銭所諸入目として召入置申候( 異体字)
一 所中家一軒ニ付山苧一本玉子三ケ里芋相添差出残りハ入札ニ相拂候( 異体字)

楠川文書 一五

差出
一 挨拶人

当年六十九才 喜太郎
但其身ニ茂役儀相勤為申者ニ御座候( 異体字)
一 右同
 同三八才 次兵衛
 右同
一 道案内人
 同五七才 五藤次
 右同
一 同
 同四拾壱才 重五郎
 右同
一 同
 同三拾四才 惣助
 右同
一 同
 同三拾七才 仲平
 右同
一 同
 同三拾弐才 仲八
 右同
右者測量衆御下嶋ニ付右人柄相志らべ可申出旨被仰渡奉承知吟味仕候( 異体字)處右之者共相応ニ[  ]御座候( 異体字)差出如此御座候( 異体字)
以上
      楠川村庄屋 市右衛門
申正月廿九日
楠川村御詰 御下目付衆

楠川文書 一六

口上覚留
申四月五日より( 異体字)同十四日迄之間
一 日数 弐日ヅツ 支配人 八人
申四月五日より( 異体字)同十四日迄之間
一 日数 弐日ヅツ 水夫 弐人
右者御測量方当村御通節右日数ヅツ相勤候( 異体字)間此段被仰上可被下様頼上候( 異体字)以上
      楠川村庄屋 市右衛門
申五月
宮之浦 御下代衆

楠川文書 一八

差出
一 当年 三拾九歳 政右衛門
 但シ其身役儀相勤為申者ニ御座候( 異体字)
一 同 四拾四歳 脇次郎
但シ親代其身無役者ニ御座候( 異体字)
 右在番付横目仲五郎跡役
一 当年 三拾四歳 孝左衛門
 但シ親代其身役儀相勤為申者御座候( 異体字)
一 同 三拾四歳 平左衛門
 但シ親代其身右同断者御座候( 異体字)
一 当年 弐拾三歳 新太郎
 但シ親代其身無役者ニ御座候( 異体字)
一 同 弐拾七歳 仲蔵
 但し親代々役儀為相勤申者御座候( 異体字)
   右行司 長太郎跡役
右者当所御在番付横目仲五郎跡役并横目喜次郎跡役行司長太郎跡役人柄相志らべ可御差出旨被仰渡奉承知所役々出会吟味仕申候( 異体字)処之右者共相応ニ可有御座由差出如此御座候( 異体字)以上
 酉正月
   楠川村横目 喜次郎
   右同所庄屋 徳左衛門
宮之浦 御下代様

伊能中図(東大総合研究博物館蔵)に加筆

 垂城録

 『垂城録』は肝付兼伯(測量隊掛として伊能達の世話をした肝付平右衛門と同一人物)が文化年間に著した記録です。

文化七年庚午六月十六日
公義天文方伊能勘解由並弟子坂部員兵衛下河部政五郎青木勝次郎永井要助内弟子三人竿取役壱人家来人足迄すべて十八人鹿児島より御留守居付役野元嘉三次殿御徒目附岩山雲八殿両人御領国中附廻りにて差し越され且又御記録方添投得能正助殿右同書役左近充喜八殿絵師大山勘助御奉行樺山孫右衛門殿書役相良筑右衛門殿足軽三人御船頭並びに水主御作事方人足其外御用聞町人賄方受人新城止宿にて今早朝差入當町止宿の筈仰せ渡され候間同六月十五日御番頭梅本伝右衛門浦役人梅本太郎兵衛郡見廻肝付平左衛門測量方掛り仰せ付けられ置き候に付柊原へ差し越し候外に御役所書役藺牟田周右衛門道案内四人御料理役差引人等段々仰付けられ差し越し候

一、同六月十六日旱天新城より差入れにて新城境柊原村洗出しよりすべて渚涯縄引測量これ有り候て海潟村の内和田迄相済み公儀役々はすべて客屋に差し越され同宿なり
一、同六月十七日未明より海潟村和田より縄引測量これ有りすべて磯涯相廻り牛根境赤石迄朝四ツ時分迄に相済み候
一、公儀役々の内坂部貞兵衛永井要助内弟子一人合わせて三人外に人足共相付け都之城測量縄引の筈にて新城より直に福山迄船にて差し越しにて垂水へは差し入れこれ無く候
一、御家老浜田金左衛門殿測量方掛にて候得共縄引測量方へは御番頭衆出会にて相済み金左衛門殿儀は手槍若黨両人草履取相列られ勘解由旅宿へ島津長門年寄にて候間御用等の節は仰せ付けらるべき旨挨拶にて相済み候
一、伊能勘解由方へは御物御用人衆杯の様織に致し会釈候様仰せ渡され候
一、御番頭( 野掛は羽織野袴者)郡見廻( 野掛は羽織着もも引)すべて草履取一人ずつ召しつれ且宿見舞の節は麻上下着用致し候様仰せ渡され候
一、伊能勘解由下総百姓子にて天文にて立身当分御家人にて候得共御家人より格宜しき由
一、坂部貞兵衛天文方に付與カ格の由

一、下河部政五郎青木勝次郎永井要助の三人天文弟子にて当分同心格の由
一、垂水中惣高額六千七百拾七石九斗九升六合八勺
一、百姓人躰参千参百参拾五人
一、窯数六百九拾四軒
一、町人躰百人
一、窯数弐拾六軒
一、窯数百九拾参軒

右所中惣高頭並百姓町人浦浜人惣人躰窯数去る寛政十二申年札御改元を以て相記し申し候


旧記雑録三国名勝図会種子島家譜楠川文書垂城録第七次測量日誌第八次測量日誌余談1:薩英戦争と伊能図余談2:西南戦争と伊能図

 第七次測量(第一次九州測量)

文化6年8月27日(1809/10/6)江戸出発
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年5月8日1810/6/9志布志町浜田甚兵衛今町高間湯村~夏井村界字丸山
文化7年5月9日1810/6/10雨逗留
文化7年5月10日1810/6/11大雨逗留
文化7年5月11日1810/6/12夏井村~人改番所~志布志村~安楽村、枇榔島一周
文化7年5月12日1810/6/13病気
文化7年5月13日1810/6/14高山波見浦重新吉安楽村~野井倉邑字菱田~益丸村~横瀬村枝大崎村~柏原村追分
文化7年5月14日1810/6/15柏原村追分~波見浦字磯崎~辺田村西泊
文化7年5月15日1810/6/16南浦村内ノ浦町浦人鉄蔵辺田村西泊~字飯ヶ谷~小串村海賊~字高崎
文化7年5月16日1810/6/17小串村高崎~字丸尾崎、小串村~南浦村枝~内ノ浦浦町
文化7年5月17日1810/6/18内ノ浦町浜~南浦町、南浦町字日崎~字白木
文化7年5月18日1810/6/19度々雨、午中太陽と恒星測定
文化7年5月19日1810/6/20朝雨、午中太陽測定
文化7年5月20日1810/6/21高山波見浦重新吉朝雨、内ノ浦浦町乗船波見浦着、恒星測定
文化7年5月21日1810/6/22同浦~同川通、中島一周、柏原村街道~中別府村字笹塚
文化7年5月22日1810/6/23鹿屋中ノ村野町町人木下屋長吉中別府村字笹塚~岡崎村枝池ノ原~上使街道~高隈川~有里村~小原村字馬見塚、馬見塚~上原村~富山村~鹿屋郷中ノ村字笠野原~鹿屋中村野町
文化7年5月23日1810/6/24大姶良村会所野町~中ノ村字西原~横山村界、横山村境~字早間崎~字田淵~大姶良村~大根占村字横尾峠
文化7年5月24日1810/6/25大根占村百姓藤治郎・伊太郎神ノ川村横尾峠~枝皆ノ倉海辺
文化7年5月25日1810/6/26山本村(現南大隅町)百姓武右衛門・庄左衛門大根占村~小根占村~山本村、山本村小口~字大浜~枝辺田~字立神~字小河原
文化7年5月26日1810/6/27雨天逗留
文化7年5月27日1810/6/28伊座敷村百姓権太郎・幸助山本村枝辺田字小河原~字大河、小字大川~汀野迫村~伊座敷村
文化7年5月28日1810/6/29伊座敷村小字塩屋谷、恒星測定
文化7年5月29日1810/6/30大泊浦(現南大隅町)伊八・清太郎字塩屋谷~枝島泊浦~山崎村枝尾波瀬~辺津加村枝大泊浦、枝尾波瀬~佐多岬、岬前~辺津加村枝大泊浦之内字田尻
<三国名勝図会> …佐多岬
其極北の北蝦夷五十度より、極南の琉球二十五度とは、南北の總計二十六度に亘れり、是を以て觀れば、日本も大國と云べし、凡そ一天學家異なり、澁川春海測は、前文の如し、西川正休測には、三十八里四分六、島谷市左衛門測には、四十三里許、小林謙貞測には、三十一里六町少、長久保赤水測には、三十二里、本藩水間喜藤太測には、三十里餘、近來伊能勘解由測には、二十八里七町一十二間、先年本藩明時館、縣官の公命にて、地圖製作の時は、伊能氏の測に據れり、
文化7年5月30日1810/7/1大泊浦字田尻~山崎村佐多岬~三崎大権現~ホノヲ崎
文化7年6月1日1810/7/2大雨中途で帰る
文化7年6月2日1810/7/3大泊浦~字田尻、字外之浦~坂本村字間泊~字竹之浦~小字古里越
文化7年6月3日1810/7/4郡村(現南大隅町)正兵衛・新八古里越~郡村字浜尻~小字大瀬崎、郡村小字大崩灘~大瀬崎
文化7年6月4日1810/7/5大雨逗留
文化7年6月5日1810/7/6時々雨、波荒高で逗留
文化7年6月6日1810/7/7辺津加村伝兵衛・吉之十大崩灘~辺塚村字戸崎、辺塚村字崎山~海辺~山江
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年6月7日1810/7/8岸良村枝大浦 辺津加村乗船、辺津加村田辺海岸~田辺、郡境字中河原~岸良村枝大浦
文化7年6月8日1810/7/9岸良村伊右衛門・徳右衛門岸良村枝大浦~字鯨背鼻
文化7年6月9日1810/7/10岸良村松ヶ崎~枝辺塚村前

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年6月7日1810/7/8逗留
文化7年6月8日1810/7/9辺津加村測所~字戸崎手前、恒星測定
文化7年6月9日1810/7/10辺塚村勘左衛門辺津加村乗船、岸良村枝大浦~松ヶ崎観音崎、辺津加下浜より逆測
文化7年6月10日1810/7/11岸良村伊右衛門・徳右衛門辺塚村海辺~字船間~字舟木、岸良村止宿~海辺字東~窪田川向、恒星測定
文化7年6月11日1810/7/12南浦村内ノ浦浦町浦人鉄蔵窪田川向~字川口~字宮原~岸良村南浦境~南浦村枝永坪~南浦村字日崎、恒星測定
文化7年6月12日1810/7/13鹿屋中ノ村野町町人木下屋長吉乗船し柏原村着、陸路鹿屋へ
文化7年6月13日1810/7/14大根占村百姓藤治郎・伊太郎枝皆蔵より乗船して着、恒星測定
文化7年6月14日1810/7/15高洲村(現鹿屋市)百姓新右衛門・助右衛門神ノ川村枝皆倉~大姶良村枝小浜村~高洲村枝野里、午中太陽測定
文化7年6月15日1810/7/16新城村中村三左衛門高洲村枝野里~古江村枝舟間~新城村・柊原村境、恒星測定
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年6月16日1810/7/17廻村(現霧島市)金右衛門新城村より乗船着
文化7年6月17日1810/7/18通山村(現曽於市)百姓市郎兵衛廻村~通山村
文化7年6月18日1810/7/19宮丸村本町(現都城市)西川万右衛門通山村~宮丸村字都ノ城
文化7年6月19日1810/7/20井蔵田村家中町~寺柱村~牛峠
文化7年6月20日1810/7/21廻村金右衛門宮丸村本町~廻村
文化7年6月21日1810/7/22脇本村(現姶良市)村方会所番人七左衛門・太兵衛親与市隠宅廻村~脇本村

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年6月16日1810/7/17田上村会所新城村柊原村境~田上村字浜平~海潟村天神山下、恒星測定
文化7年6月17日1810/7/18二川村郷士中浜藤十郎海潟村天神山下~牛根村字辺田~二川村人家下浜
文化7年6月18日1810/7/19廻村金右衛門二川村人家下浜~廻村、先手牛峠横切印
文化7年6月19日1810/7/20国分郷小村彦七廻村測所~湊村~国分郷小村
文化7年6月20日1810/7/21国分郷小村~広瀬川~浜ノ市村小島渡口、辺田小島、沖小島一周、弁天島半周
文化7年6月21日1810/7/22段上村新茶屋有馬七左衛門浜ノ市村小島渡口~日小浜村字長浜~段士村西川前
文化7年6月22日1810/7/23脇本村村方会所番人七左衛門・太兵衛親与市隠宅段上村~網掛川~別府川~綿瀬川~脇本村人家下~東別府村界
文化7年6月23日1810/7/24鹿児島城下車町上町会所東別府村字明神岬~真言宗潮音院、恒星測定
文化7年6月24日1810/7/25逗留
文化7年6月25日1810/7/26鹿児島市中、恒星測定
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年6月26日1810/7/27桜島横山村村方会所嶽村字ハセ~野尻村字野添~湯ノ村、おこ島一周
文化7年6月27日1810/7/28桜島脇村字瀬戸百姓蔵之丞湯ノ村~脇村字瀬戸~黒上村
文化7年6月28日1810/7/29桜島藤野村藤野庄左衛門黒上村~向面村字新燃添、新島五島

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年6月26日1810/7/27鹿児島城下車町上町会所午中太陽測定、恒星測定
文化7年6月27日1810/7/28恒星測定
文化7年6月28日1810/7/29午中太陽測定、恒星測定
文化7年6月29日1810/7/30向面村字新燃添~白浜村字洞~嶽村字ハセ、午中太陽測定、恒星測定
文化7年7月1日1810/7/31午中太陽測定、恒星測定
文化7年7月2日1810/8/1木星測量
文化7年7月3日1810/8/2午中太陽測定
文化7年7月4日1810/8/3福本村字浦町助十郎・貞助郡本村字宇宿~福本村枝東塩屋、恒星測定
文化7年7月5日1810/8/4上之村字宮坂本陣家士肝付小十郎・家士邦永五郎左衛門福本村川端~浜平川村~下之村浦町(喜入)、恒星測定
文化7年7月6日1810/8/5湊浦(現指宿市)浦人治左衛門・与惣右衛門下之村浦町~字鈴~岩本村字高目、恒星測定
文化7年7月7日1810/8/6知林島一周、岩本村字高目~宮ヶ浜磯部~湊浦止宿下海辺
文化7年7月8日1810/8/7山川津(現指宿市)本陣肥後平吉・大迫けさ湊浦止宿下海辺~鳴川村境字辺田~山川津~洲先のぼり
文化7年7月9日1810/8/8洲先~字瀬岩峰、木星測量
文化7年7月10日1810/8/9木星測量、この日より持病
文化7年7月11日1810/8/10仙田村川尻浦百姓長十郎・伝太郎字瀬岩峰~川尻浦
文化7年7月12日1810/8/11郡村郷士中島勘兵衛・郷士種田市郎右衛門川尻浦~開聞崎~字津瀬~郡村字前浜、恒星測定
<三国名勝図会> …番所鼻
往歳大府の測量官、伊能氏、諸國を巡歴して、此地を過きし時、景勝を賞して曰く、是名所の浦なり、列國の内にかくの如くなる景勝の處は、復得べからずとて、半日許り駐滞して、この所の畫圖を寫せしとかや、凡そ開聞嶽遠眺の勝地は、坊津耳取嶺と、此所なりといふ、此地西陲にあれば、其名天下に著はれず、實に惜むべきなり
文化7年7月13日1810/8/12西別府村東塩屋東塩屋諸左衛門・九兵衛郡村字前浜~御領村枝石垣浦~西別府村西塩屋(知覧浦)、恒星測定
文化7年7月14日1810/8/13鹿篭村枝枕崎浦浦人宇吉・甚兵衛西別府村西塩屋~鹿篭村字脇沢津~鹿篭村枝枕崎浦
文化7年7月15日1810/8/14坊津村庄兵衛・吉兵衛枕崎浦~鹿篭村~坊津村田代、恒星測定
文化7年7月16日1810/8/15田代~高立神~坊津浦、遠見番所~山島
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年7月17日1810/8/16久志村孫之進・忠左衛門雨につき不測
文化7年7月18日1810/8/17坊津浦~深浦胸ヶ崎~松崎~今村浜

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年7月17日1810/8/16秋目村喜太郎・喜六木星測量用意
文化7年7月18日1810/8/17大曇、木星測量不出来
文化7年7月19日1810/8/18久志村今村浜~字末柏~末柏鶴喰崎、字末柏~横切
文化7年7月20日1810/8/19字平崎~秋目村~赤生木村字止松~黒瀬村釜ノ下、沖秋目島一周、恒星測定
文化7年7月21日1810/8/20片浦村浦人長左衛門・勘左衛門黒瀬村字釜ノ下~片浦村野間崎~宇野間屋敷
文化7年7月22日1810/8/21宇野間屋敷~大富字高崎片浦村番所岬、竹島・橘島一周、恒星測定
文化7年7月23日1810/8/22片浦村番所前~片浦村人家~字後手浦~片浦村・赤生木村村境、桟敷島一周
文化7年7月24日1810/8/23片浦村界~大浦村字塩賀崎~大浦村水ヶ崎、橘島一周、恒星測定
文化7年7月25日1810/8/24木星測量
文化7年7月26日1810/8/25片浦村浦人長左衛門・勘左衛門木星測量
文化7年7月27日1810/8/26小湊村本陣治郎兵衛・覚左衛門大浦村水ヶ崎~小湊村東浜~万之瀬川北縁
文化7年7月28日1810/8/27入来村百姓半十郎・覚蔵万之瀬川北縁~新川、池辺村字塩屋堀~伊作川~入来村今田村界、恒星測定
文化7年7月29日1810/8/28日置村新四郎・仙治郎今田村~浜田川~永吉村吉利村境~日置村帆ノ湊
文化7年7月30日1810/8/29市来湊村浦町浦人善吉・十右衛門日置村帆ノ湊~大里村字戸崎~湊川~串木野
文化7年8月1日1810/8/30上甑島 里村本陣浄土宗旭宝山西昌寺・郷士原田五郎兵衛市来湊村浦町より乗船、恒星測定
文化7年8月2日1810/8/31里村測所~番所前~字松原飛切浜~松島崎、射手崎・近島・野島一周
文化7年8月3日1810/9/1一同休息、恒星測定
文化7年8月4日1810/9/2里村番所前~字蓑懸崎、木星測量
文化7年8月5日1810/9/3同 小島村本陣甚左衛門・郷兵衛・嘉左衛門里村字松原~横切字園山西ノ浜~字松原、字園山~長目浜~瀬上村字魚待崎、長目浜~浜切瀬上村字キス原~字二子、恒星測定
文化7年8月6日1810/9/4字二子~字□ヶ鞍~瀬上村字魚待崎
文化7年8月7日1810/9/5同 平村本陣利右衛門・千助・徳左衛門瀬上村字キスコ~中甑村字中河原~縄立ノ帆~中島北側、中島南側まで、平村小池鼻~平村本陣~矢崎、恒星測定
文化7年8月8日1810/9/6中島北側~中島南側、中甑村辺田串~字鞍妻崎~里村界茅牟田崎、平村字矢崎~字葵崎~宇都々
文化7年8月9日1810/9/7下甑島 伊牟田村本陣郷士梶原八郎左衛門・郷士梶原五兵衛・百姓伝治衛門平村字下津々~字平河内~字沖ノ串、恒星測定
文化7年8月10日1810/9/8木星測量、止宿前下浜~津布羅~字下り山後~字中ノ浦、西引切~東引切、恒星測定
文化7年8月11日1810/9/9止宿前下浜~東引切~字ヘシゲ浦~瀬尾崎
文化7年8月12日1810/9/10同 青瀬村本陣青瀬村会所・百姓銀左衛門・百姓周左衛門長浜村字芦浜~青瀬村字江崎~青瀬村海辺測所~瀬尾崎
文化7年8月13日1810/9/11同 浜市浦本陣織右衛門・金兵衛青瀬村瀬尾崎~手打村字浜ノ浦~手打崎~字石垣、字浜ノ浦~字大串
文化7年8月14日1810/9/12同 瀬々浦村清八・庄助・仲兵衛片野浦村海辺~瀬々浦本陣
文化7年8月15日1810/9/13手打村字大串~片野浦村字早崎前
文化7年8月16日1810/9/14片野浦村海辺~字早崎手前、瀬々浦村本陣~字内ノ河内~伊牟田中ノ浦山上、恒星測定
文化7年8月17日1810/9/15同 青瀬村本陣青瀬村会所・百姓銀左衛門・百姓周左衛門瀬々浦村本陣前~青瀬峠~青瀬村本陣前
文化7年8月18日1810/9/16上甑島 里村本陣浄土宗旭宝山西昌寺・郷士原田五郎兵衛里村の予定が北風のため中甑島村に着船
文化7年8月19日1810/9/17串木野村串木浜本陣辰右衛門・休次郎・伝之助里村より乗船、恒星測定
文化7年8月20日1810/9/18逗留、薩州より贈物あり
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年8月21日1810/9/19市来湊村浦町浦人善吉・十右衛門串木野浦~市来湊村
文化7年8月22日1810/9/20市来湊村苗代川李欣磧湊村~大里村~湯田村~伊作田村~長里村枝市来~寺脇村内苗代川
文化7年8月23日1810/9/21犬迫村枝横井村領主仮館苗代川~太田村字坂元~谷口村字野町(伊集院)~猪鹿倉村~清藤村字大迫~土橋村字町田~石谷村~竹之山村~犬迫村枝横井村
文化7年8月24日1810/9/22鹿児島城下車町上町会所横井村~小野村~原良村~西田村ノ内西田町~西ノ町~中ノ町~西田橋
文化7年8月25日1810/9/23逗留
文化7年8月26日1810/9/24叚土村新茶屋有馬七左衛門鹿児島より乗船脇本村上陸、陸路
文化7年8月27日1810/9/25有川村枝石原百姓太四郎叚土村蒲生町~宇中町~字柳田~字萩原~字楢木~高井田村~小山田村字蹴上~字井目~字東木~有川村字瀬丸~石原
文化7年8月28日1810/9/26中ノ村百姓喜惣治有川村枝石原~字十文字~竹子村~下ノ名村字姪床~中ノ村字深川~中ノ村
文化7年8月29日1810/9/27小羽村百姓庄右衛門中ノ村~小羽村~北ノ名村
文化7年8月30日1810/9/28中津川村麓郷士石神友助北ノ名村~中津川村~日州亀沢村界まで
文化7年9月1日1810/9/29中福良村(現えびの市)庄左衛門日州亀沢村~日州中福良村

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化7年8月21日1810/9/19羽島村羽島浦浦人由右衛門・伝蔵串木野浦~五反田川~羽島浦~羽島村字宮田越、恒星測定
文化7年8月22日1810/9/20網津村枝京泊浦浦人小倉平兵衛羽島村字宮田越~字土川~久見崎村字黒崎、恒星測定
文化7年8月23日1810/9/21京泊止宿前~川内川川口北端~久見崎村字黒崎、京泊止宿前~月屋鼻、船間島一周
文化7年8月24日1810/9/22西方村村会所亭主分浦人庄八川内川川口北端~西方村~阿久根村字尻なし
文化7年8月25日1810/9/23阿久根村浦町本陣源兵衛・吉右衛門阿久根村字尻なし~字クビレの松
文化7年8月26日1810/9/24大島一周、桑島半周、字クビレの松~岬~クビレの松
文化7年8月27日1810/9/25海辺岩の上~倉津~阿久根浦町下浜~字波留黒崎、恒星測定
文化7年8月28日1810/9/26脇元村百姓杢之助黒崎~赤瀬川~脇元村
文化7年8月29日1810/9/27知識村字西目、黒源左衛門・喜太郎脇元村浜辺~知識村字西目、黒~仕越、無名島一周
文化7年8月30日1810/9/28蕨島字中村久兵衛・善太郎仕越~字江内、恒星測定
文化7年9月1日1810/9/29桂島二島・蕨島一周、字江内~字尾野島
文化7年9月2日1810/9/30米ノ津浦町善六・長十郎字尾野島~知識村字福之江~米ノ津浦町薩州旅館角、恒星測定
文化7年9月3日1810/10/1薩州旅館角~薩州切通村肥後神川村界
文化7年9月4日1810/9/2長島 塩追浦 米ノ津浦町より乗船
文化7年9月5日1810/9/3同 加世堂浦本陣与左衛門・新蔵長島塩追浦~市木崎~加世堂崎~加世堂浦 
文化7年9月6日1810/9/4同 唐隈村本陣市郎・戸左衛門加世堂浦~字山門野~字瀬戸~カラクマ村ノ下浜
文化7年9月7日1810/9/5同 城河内村禅宗長光寺同所下浜~城河内村人家下浜、恒星測定
文化7年9月8日1810/9/6同 蔵本村百姓住助・佐五兵衛下浜~蔵元村字小浜~字舟津、恒星測定
文化7年9月9日1810/9/7同 浦底村百姓主左衛門・早左衛門字舟津~字平尾~小字浜漉~浦底人家下
文化7年9月10日1810/9/8同 三船村新右衛門・新次郎人家下~三船村、恒星測定
文化7年9月11日1810/9/9クツワ島、野島一周
文化7年9月12日1810/9/10三船村~臼井村、竹島一周
文化7年9月13日1810/9/11伊唐島 和行浦長右衛門・長五市臼井村~赤崎鼻~塩追浦、伊唐島へ渡る、湊入江測量、恒星測定
文化7年9月14日1810/9/12伊唐島一周
文化7年9月15日1810/9/13獅子島塀ノ串吉兵衛・戸右衛門所島一周、獅子島鷹之口前~立石鼻
文化7年9月16日1810/9/14立石鼻~字御所浦、無名島一周
文化7年9月17日1810/9/15獅子島字片側~御所浦

参考:InoPedia【第七次測量】


旧記雑録三国名勝図会種子島家譜楠川文書垂城録第七次測量日誌第八次測量日誌余談1:薩英戦争と伊能図余談2:西南戦争と伊能図

 第八次測量(第二次九州測量)

文化8年11月25日(1812/1/9)江戸出発
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年2月26日1812/4/7目丸村(現伊佐市)番所芦北郡久木野村~薩州目丸村飛地小河内
文化9年2月27日1812/4/8南榎原村百姓政吉・喜八小河内川~山野村~小木原村~渡田村~大儀寺村~大内田村~榎田村~北榎原村~羽根木村~南榎田村字大口駅
文化9年2月28日1812/4/9湯尾村只右衛門・長助大口~一山村~花北村~重留村~前目村~湯尾村
文化9年2月29日1812/4/10終日雨、逗留
文化9年2月30日1812/4/11横川駅銀四郎・喜三治湯尾村~南浦村~高田村~中ノ村~横川駅
文化9年3月1日1812/4/12叚土村瀬尾矢兵衛・有馬七兵衛無測、恒星測定
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年2月24日1812/4/5米津浦善六・喜左衛門芦北郡袋村~鯖淵村米ノ津浦
文化9年2月25日1812/4/6野田村郷士吉冨亀治郎・吉満善助米ノ津浦~武本村~高尾野村~野田村
文化9年2月26日1812/4/7阿久根町町人川南源兵衛・手洗作左衛門野田村~阿久根町
文化9年2月27日1812/4/8麦浦村庄八・孫太郎阿久根町~麦浦村村内西方
文化9年2月28日1812/4/9大小路村客館西方下之村~大小路村川内川前
文化9年2月29日1812/4/10雨天逗留
文化9年2月30日1812/4/11串木野村百姓幸左衛門・武平治川内川前~東手村~西手村~串木野村字芹ヶ野
文化9年3月1日1812/4/12湊村湊町久八・十右衛門芹野~湊村湊町
文化9年3月2日1812/4/13鹿児島城下呉服町会所無測

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年3月2日1812/4/13脇本村百姓与市・会所叚土村~木田村~餅田村~脇元村~綿瀬川字浦町~白金峠
文化9年3月3日1812/4/14鹿児島城下呉服町会所白金峠~宮ノ浦村~吉野村~鹿児島城下下町
文化9年3月4日1812/4/15大曇天、雨 
文化9年3月5日1812/4/16恒星測定
文化9年3月6日1812/4/17朝大雨午後まで降る
文化9年3月7日1812/4/18雨又晴、恒星測定
文化9年3月8日1812/4/19城下測量、恒星測定
文化9年3月9日1812/4/20屋久島行荷物積立
文化9年3月10日1812/4/21鹿児島湊船中泊城下乗船、船中逗留
文化9年3月11日1812/4/22雨、船逗留
文化9年3月12日1812/4/23終日降る、船逗留
文化9年3月13日1812/4/24山川湊船中泊雨のち曇天、出帆
文化9年3月14日1812/4/25助市・庄左衛門山川湊入港上陸
文化9年3月15日1812/4/26曇天南風、逗留
文化9年3月16日1812/4/27晴曇、南風、同
文化9年3月17日1812/4/28終日曇、南風、同
文化9年3月18日1812/4/29晴天、続いて南風、同
文化9年3月19日1812/4/30晴天後曇、南風、同
文化9年3月20日1812/5/1雨、南風、七つ半頃大地震
文化9年3月21日1812/5/2雨、小西風になる
文化9年3月22日1812/5/3無風から北風、乗船し佐多岬まで乗り出し、後逆風になり引帰す
文化9年3月23日1812/5/4晴天、南風に付逗留
文化9年3月24日1812/5/5朝より曇晴、同前
文化9年3月25日1812/5/6雨、逗留
文化9年3月26日1812/5/7午後より晴、出帆可成と船手より申出る
文化9年3月27日1812/5/8屋久島 安房村善蔵・善治郎・幸八山川湊出港、安房村着
文化9年3月28日1812/5/9晴天、測量支度に付逗留、恒星測定
文化9年3月29日1812/5/10安房村~村内字長江
文化9年4月1日1812/5/11終日雨
文化9年4月2日1812/5/12長江~吉田村属船行村
文化9年4月3日1812/5/13同 小瀬田村本明山光正寺船行村~吉田村属小瀬田村
文化9年4月4日1812/5/14雨、逗留、夜曇晴恒星測定
文化9年4月5日1812/5/15同 宮ノ浦村万蔵・浜助小瀬田村~吉田村属楠川村~宮ノ浦村、恒星測定
文化9年4月6日1812/5/16宮ノ浦川口~吉田村属志戸子村内石浜
<三国名勝図会> …八重岳
皇國の高山の内、富士嶽を第一の高山と稱ずれども、富士は陸地より秀たるに、此八重岳は、海底より直立せる岳なれば、其高きことは、却て其上に出べし、往年縣官より、測量の命を受て、諸國を經歷したる伊能勘解由と云る人、屋久に渡海して、其嶽の秀絶を見て、富士も及ばずと、歎稱したることありとかや、富士は巓きまで上り十里なり、直立の高さ三十六町、淺間山、直立高さ十二町、箱根山、直立の高さ七町、是會田自在といふ測量者の説なり、又日本の高山富士淺間の類、火ありて燃たる所多し、凡そ燃る山は土山なる故なりと□、此八重岳は石山にて、水泉多き故にや絶高を究めたれども、古より燃ざるは又一の奇と云つべし
文化9年4月7日1812/5/17同 一湊村万助・新助石浜~吉田村属t一湊村川口
文化9年4月8日1812/5/18同 永田村久八・要助・千治郎川口~吉田村地内、午後大雨大浪
文化9年4月9日1812/5/19長田村より逆測
文化9年4月10日1812/5/20長田村川口同村字岬前、恒星測定
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年4月2日1812/5/12同 麦生村本慶寺・善治郎安房村字長江~栗生村属麦生村
文化9年4月3日1812/5/13同 尾ノ間村本経寺・喜蔵麦生村同所属原村~同所属尾ノ間村 
文化9年4月4日1812/5/14大雨、逗留
文化9年4月5日1812/5/15同 湯泊村金助・平蔵・孫四郎尾ノ間村~栗生村属小島村~栗生村属平内村~同椎野村~同湯泊村
文化9年4月6日1812/5/16同 栗生村治右衛門・助左衛門・市蔵湯泊村~栗生村属中間村~栗生村
文化9年4月7日1812/5/17長田村地内、芋生川~栗生村
文化9年4月8日1812/5/18大雨、逗留
文化9年4月9日1812/5/19曇、波高、逗留
文化9年4月10日1812/5/20曇、船側不成、長田村地内

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年4月11日1812/5/21同 永田村久八・要助・千治郎岬前~村内ユルンデ岬~長田村
文化9年4月12日1812/5/22同 宮ノ浦村万蔵・浜助長田村乗船宮ノ浦村着、波浪大
文化9年4月13日1812/5/23風雨に付逗留
文化9年4月14日1812/5/24同 安房村善蔵・善治郎・幸八南風乗船見合、浪高ながら乗船、安房村着 
文化9年4月15日1812/5/25種子島渡船仕立に付逗留
文化9年4月16日1812/5/26晴天
文化9年4月17日1812/5/27西風、恒星測定
文化9年4月18日1812/5/28東風
文化9年4月19日1812/5/29大雨
文化9年4月20日1812/5/30度々雨降
文化9年4月21日1812/5/31晴天 、恒星測定
文化9年4月22日1812/6/1曇後微雨
文化9年4月23日1812/6/2小雨、逗留、順風を待
文化9年4月24日1812/6/3
文化9年4月25日1812/6/4船中泊乗船、併順風ならす、船中止宿
文化9年4月26日1812/6/5種子島 島間村本陣市郎右衛門・嘉兵衛・金作出帆、種子島に至て逆風、島間村上る
文化9年4月27日1812/6/6
文化9年4月28日1812/6/7曇り
文化9年4月29日1812/6/8恒星測定
文化9年5月1日1812/6/9島間村~字稲子泊~油久村字梶潟~屋久津~阿高磯~油久村野間村界、島間村~字崎田~島間岬~字牛野~中野村字中野~塩屋~字大川
文化9年5月2日1812/6/10同 浜津脇浦清右衛門・嘉兵衛油久村野間村界~野間村~納官村~海辺津脇浜
文化9年5月3日1812/6/11同 住吉村新太郎・甚右衛門浜津脇浦~牧川~住吉村
文化9年5月4日1812/6/12同 赤尾木村華蔵山慈遠寺字宇能野内浜~西ノ面村字石寺~字海士泊~西面村内赤尾木~田ノ脇~赤尾木止宿下浜、華蔵山慈遠寺~仕越字花里
文化9年5月5日1812/6/13田ノ脇~同村内字現和
文化9年5月6日1812/6/14同 国上村喜太郎・喜三治西面村字花里~国上村内浦田浦、岬一周、恒星測定
文化9年5月7日1812/6/15同 井関村庵一軒・市田一軒内浜~国上村之内浜脇塩屋浜、恒星測定
文化9年5月8日1812/6/16同 赤尾木村華蔵山慈遠寺浜脇塩屋浜~国上村枝沖ノ浜田、同安納村~西面村字障子浦~西面村枝現和村内田ノ脇海辺、恒星測定
<支隊>
旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年5月2日1812/6/10種子島 中野村本仁寺中野村字大川~字広浜~字立石~枝塩沢~枝西目~門倉岬
文化9年5月3日1812/6/11同 茎永村客館・郷士岩坪甚蔵門倉岬~茎永村小佐鼻~字竹崎
文化9年5月4日1812/6/12同 茎永村浜田旅館家番羽生八百右衛門茎永村字竹崎~茎永村枝平山~字浜田
文化9年5月5日1812/6/13雨、逗留
文化9年5月6日1812/6/14同 油久村旅館家番下村四郎兵衛茎永村字浜田~大浦川尻~由久村熊野川~字熊野~字女洲
文化9年5月7日1812/6/15同 納官村旅館家番脇瀬権左衛門由久村字女洲~野間村字竹屋野~田尻川~納官村益田~仕越~字岩屋口~字小塩屋~字大塩屋
文化9年5月8日1812/6/16同 住吉村永野半右衛門字大塩屋~住吉村枝安城~字休鼻~字川脇~枝安城
文化9年5月9日1812/6/17同 赤尾木村華蔵山慈遠寺安城~西面村枝田ノ脇

旧暦西暦宿泊地宿舎備考
文化9年5月10日1812/6/18同 赤尾木村華蔵山慈遠寺
文化9年5月11日1812/6/19
文化9年5月12日1812/6/20終日降る
文化9年5月13日1812/6/21
文化9年5月14日1812/6/22
文化9年5月15日1812/6/23晴天、恒星測定
文化9年5月16日1812/6/24
文化9年5月17日1812/6/25大雨
文化9年5月18日1812/6/26曇晴、恒星測定
文化9年5月19日1812/6/27晴天、恒星測定
文化9年5月20日1812/6/28曇、恒星測定
文化9年5月21日1812/6/29晴天、風
文化9年5月22日1812/6/30山川湊船中泊赤尾木出帆~山川湊着
文化9年5月23日1812/7/1鹿児島城下呉服町会所山川湊出船~鹿児島城下着 
文化9年5月24日1812/7/2晴天
文化9年5月25日1812/7/3曇天、薩州候御料理并国産銘々江御贈被下
文化9年5月26日1812/7/4晴曇、江戸書状相渡
文化9年5月27日1812/7/5浜市村本陣喜太郎・五郎兵衛・定右衛門城下乗船~桑原郡浜ノ市村着、恒星測定
文化9年5月28日1812/7/6松永村本陣郷士津出伝之助・郷士岩崎伝兵衛浜市村海辺~畑中村~内山田村~見次村~内村字辻、内村宮印~字コイノ内~枝川原~広瀬川~曾於郡姫木村字石踊~松永村
文化9年5月29日1812/7/7霧島山花林寺神徳院松永村~字剣野~同土田~葛坂~重久村字春山~大窪村~大窪坂~田口村字林北~霧島山紙屋道追分、追分~枝払谷~一ノ華表~仁王門~霧島川~霧島山~山下坊

参考:InoPedia【第八次測量】


旧記雑録三国名勝図会種子島家譜楠川文書垂城録第七次測量日誌第八次測量日誌余談1:薩英戦争と伊能図余談2:西南戦争と伊能図

 余談1:薩英戦争と伊能図

和暦西暦事項
文政4年1821伊能図完成献上
文政11年1828シーボルト事件
天保11年1840シーボルト「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」刊行
文久元年1861イギリス測量艦隊来航、幕府伊能小図を与える
文久2年1862/9/14生麦事件
文久3年1863/5/16イギリス海軍伊能図に基づき海図「日本No.2347」大改訂
文久3年1863/8/15-17薩英戦争
文久3年1863/11/10イギリス海軍海図「九州No.358」刊行
文久3年1863/11/20イギリス海軍海図「鹿児島港No.372」刊行
慶応3年1867勝海舟「大日本国沿海略図」木版刊行
慶応3年1867開成所「官版実測日本地図」刊行
英字紙新聞記事(Wikipediaによる)薩英戦争絵図(Wikipediaによる)
 さて、伊能図が完成し、幕府に献上されたのは彼の死後、文政4年(1821年)のことです。それから42年後に薩英戦争が起きています。イギリス海軍が鹿児島湾に侵攻するためには海図を持っていたはずです。この時に伊能図は使われたのでしょうか。もちろん、伊能図は海図ではありませんから、海域の深浅は知り得ませんが、海岸線は正確ですので、航海には大いに役立つに違いありません。その頃の関係年表を右に掲げておきます。
 シーボルトの地図は既に刊行されていましたから、恐らくはイギリスでも入手可能だったでしょう。問題はイギリス海軍による伊能図をもとにした海図改訂と薩英戦争が同じ年だと言うことです。イギリス艦隊が改訂版海図を持っていたかどうかです。しかし、2年前の1861年には幕府自身により伊能小図をイギリス海軍に与えていますから、イギリス海軍が伊能図を利用した可能性が大きいのではないでしょうか。改訂版の海図「日本」も本国で3ヶ月前に完成していますから、持っていた可能性が高いだろうと思います。
 なお、当時発行された英字紙には詳細な地図が載っていますが、これは「鹿児島港No.358」を使用しているようです。
<参考>
 •記録材料・鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全(国立公文書館)
<謝辞> 本項については、八島邦夫元海上保安庁海洋情報部長にご教示いただきました。記して謝意を表します。

 余談2:西南戦争と伊能図

西海道全圖(部分)(個人蔵)
 西海道全圖は、明治10年(1877)4月に陸軍參謀局によって発行された伊能中図と同じ縮尺216,000分の1の地形図です。西南戦争(2月~9月)の必要性から迅速測図されたのだそうです。伊能図に内陸部の地形を補い、道路などを朱書追加したものです。官軍はこれを使って、鹿児島まで薩軍を追い詰めたのでしょう。

 下記、佐賀県立図書館のウェブサイトで全図がご覧になれます(Adobe Flashが必要)。
参考:佐賀県立図書館
<参考論文(抄)>

  1. 増村 宏(1952), 伊能忠敬の屋久島種子島測量. 鹿児島大学文科報告, No.1, p.1-36.
  2. 増村 宏(1953), 伊能忠敬測量當時の種子島の情況. 鹿児島大学文科報告, No.2, p.28-81.
  3. 増村 宏(1954), 種子島家譜について. 鹿児島大学文科報告, No.3, p.161-190.
  4. 増村 宏(1962), 懐中島記と垂城録. 鹿大史学, No.10, p.23-36.
  5. 増村 宏(1968), 大谷亮吉編著「伊能忠敬」の日本測量について. 地学雑誌, Vol.77, No.1, p.24-36.
  6. 五代秀尭・橋口兼柄 共編(1843) (山本盛秀, 1905), 三国名勝図会
  7. 鹿児島県立図書館(1970), 伊能忠敬の鹿児島測量関係資料並に解説. 鹿児島県立図書館, 81pp.
  8. 追録薩藩旧記雑録(巻148)
  9. 肝付兼伯撰(1807), 垂城録
  10. 前田利興(1886), 垂城録. 複製(垂水市史編纂委員会(1978)「垂水市史料集(二)」p.62-90.)
  11. 楠川村庄屋 市右衛門(), 楠川文書
  12. 上妻隆直撰(1982), 懐中島記. 西之表市立図書館, 86pp.
  13. 鮫島宗美訳(1962), 種子島家譜. 熊毛文学会, 6冊
  14. 鮫島宗美訳・著(2003), 種子島家譜. 復刻版, ぶどうの木出版, 6冊
  15. 鮫島 穣(2011), 種子島物語: 鮫島宗美和訳「種子島家譜」を読む. 和田書店, 212pp.
  16. 川内市史編さん委員会(1975), 川内市史(上巻)
  17. 市来町郷土誌編集委員会(1982), 市来町郷土誌
  18. 屋久町郷土誌編さん委員会(2007), 屋久町郷土誌第四巻
  19. 南種子町郷土誌編纂委員会(1960), 南種子町郷土誌. 南種子町,
  20. 南種子町郷土誌編纂委員会(1987), 南種子町郷土誌. 南種子町, 1461pp.
  21. 山本博文(), 島津家文書の概要. , Vol., No., p.1-10.
  22. 山本博文(2003), 危機を乗り越えて伝存した国宝・島津家文書(史料編纂所所蔵). 図書館の窓(東大付属図書館報), Vol.42, No.4, p.45-48.
  23. 前田靖夫(1967), 明治十年西海道全図について. 地理, Vol.5, No.2, p.37-40.
  24. 菱山剛秀(2008), 明治時代の伊能図の利用と地理空間情報. 日本国際地図学会第42回地方大会(北九州)講演要旨 , p.1-4.
  25. 井口悦男(2008), 鹿児島付近2万分1迅速測図群. 帝京大学文学部教育学科紀要, Vol.33, No., p.1-16.
  26. (), . , Vol., No., p..
  27. (), . , Vol., No., p..
  28. (), . , Vol., No., p..
  29. (), . , Vol., No., p..
  30. (), . , Vol., No., p..
<参考図書(抄)>

参考サイト:


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更新日:2016/07/12
更新日:2018/12/04